名門ゴルフクラブ・鳴尾ゴルフ倶楽部はC・H・アリソン氏の設計による!

鳴尾ゴルフクラブは日本の名門ゴルフ倶楽部でチャールズ・ヒュー・アリソン氏の設計によって今の造形美に行きつきました。
アリソンバンカーを巧みに配したそのコースの美しさは英国のリンクスを彷彿させるという評価のようです。
場所は兵庫県の六甲山の丘陵地域にあります。
歴史的には浜コースが一番古いのですが、それを考慮すれば1903年になります。
しかしその後この浜コースは閉鎖されて今は住宅地になっていてその面影はないそうです。
正式には鳴尾ゴルフクラブが誕生したのは1920年(大正9年)です。
それ以前にも先ほどの断片的なコースはあったようですが、正式に鳴尾ゴルフクラブとなったのは1920年とあります。
Contents
鳴尾ゴルフクラブの生い立ち
ここ六甲山系には日本で一番最初にできたゴルフ場があります。
「神戸ゴルフ倶楽部」
です。できたのは1903年とあります。
それから遅れること世紀には1920年に「鳴尾ゴルフ倶楽部」が誕生します。
1924年に18ホールが完成して営業を始めたようです。
しかし金融恐慌の時代で一時期9ホールに縮小!
これは経費の面でのことだと思います。
このコースは鳴尾浜コースです。
然し会員は18ホールを希望するというのは当たり前ですよね。
そこで新コースの18ホールの選定地とコースの設計を任されたのがクラブ運営の中枢社員であった
「Joe E.Crane、そしてHarry C.Crane、Bertie E.Crane 」
のクレーン3兄弟です。
そこで3人が目を付けたのが現在の住所の川西市西畦野(当時、東谷村大字畦野)になるわけです。
選定した理由が
1 地価が安い
2 コースに適した地形
3 交通の便も良好
必ずこの地形を生かせばチャンピオンコースが造れる!
そう確信したようです。
「猪名川コース」と呼ばれたそのコースが完成したのは1930年。
しかしそこで大きな転機がこの鳴尾ゴルフ倶楽部に訪れるわけです。
1931年に3カ月だけ来日した
「C・H・アリソン」
にこのコースの改修を委託(助言を依頼)したのです。
その時にアリソンは東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの設計依頼を受けて来日していたのです。
そこで廣野ゴルフ倶楽部動揺にアリソン氏に設計を嘆願、こちらの鳴尾はできたコースに改修の助言を。
この改修の助言を依頼したのは赤星六郎が設計した霞が関カンツリークラブもそうです。
勿論当初設計したクレーン3兄弟にしてみれば神のごとき存在のアリソン。
著名な設計家として当時は有名な方でしたから。
そしてこのコースの検証に望んだアリソンは約一週間ここに滞在。
骨組み工事は何ら問題ないので16ホールにおいて詳細な改善点を提示したのでした。
その通りにその年のうちに改造を終了したとあります。
1936年には初の日本オープン選手権を開催したとあります。
1936年といえば昭和11年ですね。
この年代に日本でも日本オープンを開催していたんですね。
くしくも1936年はマスターズトーナメントが1934年からの開催ですからほぼ同時期ということになります。
1939年に鳴尾浜コースが惜しまれるも閉場。
然し良質の高麗芝はこの猪名川コースにを移植されたとあります。
戦争中は徴用されるも1949年、昭和24年に18ホールすべてが復興されて営業が再開されました。
時代は変わろうともこのコースはレイアウトや内容も含めてCraneとAllisonがイメージして形にしたそのもののコースです。
壮大なビッグ3のビッグマッチのイベント
こういうのが行われたんですね。
知りませんでした。
1967年にゲーリープレーヤー・ジャックニクラウス、アーノルドパーマーの3選手でのエキジビション・マッチがこの鳴尾ゴルフ倶楽部で開催されたのです。
この試合は当時TBSが主催した合計で3戦のストロークプレーで、開催コースが霞ヶ関カンツリー倶楽部・東コース、名古屋ゴルフ倶楽部・和合コースと転戦して最後の決着の場所がこのなるゴルフ倶楽部だったわけです。
2戦目までのトップはプレーヤーでしたが、鳴尾で失速して猛追したジャックニクラウスが最終の18番で劇的なバーディーで並んだ試合でした。
そのままサドンデスのプレーオフに突入したのですが日没のためサスペンデッドに!
翌日の新聞の見出しが・・
「勝利の女神も戸惑う最高のドラマ」
だったそうです。
何時の時代も勝負は熱いものですね。
しかしよくもまあ・当時のビッグ3の面々が日本にやってきたもんですね。
驚きです。
今から約50年も前のことです。
鳴尾ゴルフ倶楽部が世界で有名になった転機!
実はまだ鳴尾ゴルフ倶楽部の評価は海外ではそんなに高くなかったのです。
っていうか知らなかったといったほうがいいでしょう。
紹介する媒体がなかったということだと思います。
それが一気に有名になったのはゴルフコース写真家の
「Brian Morgan」(ブライアン・モーガン)
のゴルフ場を撮った写真集です。
この撮影は1992年5月に撮影されたもののようです。
このブライアンモーガンという方は4大メジャーの公認専属カメラマンというから、すごい方なんですね。
その方の素晴らしい写真ン表現された鳴尾は日本を思わせる格調高い趣を醸し出していたようです。
そして日本独特の、日本を代表するゴルフクラブの魅力を伝えるには十分だったようです。
日本にあって英国のリンクスを思わせる特徴も併せ持ってるという評価でうなぎのぼり!
この写真が契機となって海外からも高い評価を受けることになったわけです。
ゴルフマガジン社の世界ランキング地トップ100にランクインしているゴルフ場は4コース。
その4番目です。順位は100番を挟んだ状態です。
名門コース鳴尾ゴルフ倶楽部の特徴とは?
鳴尾ゴルフ倶楽部の特徴を紹介します。
4つあるパー3のショートホールですが、ここはすべてが砲台グリーンです。
そして砲台グリーンといえばあの
「チャールズ・ヒュー・アリソン」
の代名詞のアリソンバンカーが待ち受けます。
これこそがアリソンの真骨頂ですね。
そしてグリーンは高麗芝です。
高麗芝の特徴は目の強さ!
おそらく私の経験から言うと傾斜と目ではどっちが優先するかという読みがかなり難しいと思います。
それと高麗芝は冬に枯れるので夏と冬ではまた別物なのです。
これも難度を上げていますね。
コースの中でアリソン氏の考えが色濃く出ているのがバンカー群ですよね。
このバンカーの特徴なのですが、バンカーエッジの近くまで砂をすりあげる、フラッシュアップという構造がとられています。
プレーヤーには難しいのですが、何ともその造形美たるや素晴らしいものがあります。
特に写真で見るコースの芝やグリーンの芝が顎の部分までバンカーに流れ込んでいる模様はアリソン氏の美観を感じさせる様で歴史を感じます。
鳴尾ゴルフ倶楽部のまとめ
しかし書いてみて思ったことは、すごい歴史を感じるということです。
それとアリソン氏の偉大さです。
1931年にわずか3カ月の滞在中に東京ゴルフ倶楽部朝霞コースと廣野ゴルフ倶楽部、鳴尾ゴルフクラブ、川奈ホテル富士山コースと霞が関カンツリークラブと5コースも設計して他に京都に行って日本庭園の「わびとさび」を体感したとあります。
まるでスーパーマンのような方ですね。
殆どのコースを1週間かからないで設計したようです。
もしかしたら地形を見たらすぐにイメージがわいてくるんでしょうね。
私は宮城県ですからちょっと行けそうにはないですし、メンバー同伴でしょうから、知り合いにはここのメンバーはいないのです無理ですね。
でも日本にはこんな素晴らしいゴルフ倶楽部があるなんて誇りを感じます。
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参考までに・・
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