日本の名門ゴルフクラブはC・H・アリソン設計・アリソンバンカーで有名!

日本の名門ゴルフクラブを設計したC・H・アリソンはあごが絶壁のアリソンバンカーで有名ですが、世界ゴルフランキング100で日本のコース3コースがランクインしています。

ランクインしたコースはすべてアリソン氏の設計です。(東京ゴルフクラブはその後移転)
廣野ゴルフクラブ、川奈ホテル富士コース、東京ゴルフクラブです。

日本の有名ゴルフクラブでベスト100に入っているコースで3つが

「チャールズ・ヒュー・アリソン(Charles Hugh Alison)」

の設計によります。

arison

ベスト100ランクイン

廣野ゴルフクラブ
東京ゴルフクラブ
川奈ホテル 富士コース

惜しくも選外でも自分は勝手に入れておきます。ていうか入るときと入らないときがあるのですがカツカツの状況ですね。

霞が関カンツリークラブ

アリソン氏の来日は1930年12月からの2か月間という短い期間埼玉県膝折村で、東京ゴルフ倶楽部朝霞コースを造成、設計に携わりました。

まさに東京ゴルフクラブ朝霞コースは日本の威信をかけたゴルフ場の設計だったわけですから、当時の有名設計家のアリソン氏は適任だったわけです。

しかしその時にアリソン氏に設計を懇願したゴルフ場は多かったんですよね。

まず

「廣野ゴルフクラブ」

ちょうど造成中企画中でアリソン氏に設計を懇願!
東京から兵庫まで移動して現地を見たアリソン氏は感激!
地の利を生かした設計図面をホテルにこもって4日間で完成。

川奈ホテルも同じようです。

それと霞が関カンツリークラブも。
当時霞が関はすでに完成していたのですが、コースの設計者が視察を依頼。
そこでアリソン氏の提案で、改造をするように指示した設計図ができて、助手のベングレス氏の監督の元に改造工事を行ったということのようです。

この時に代表的な10番のアリソンバンカーに例えられるバンカー群が作られたのでしたね。

霞が関は次期東京オリンピックの会場に決まっているようです。

日本のコースで世界有名ゴルフクラブランキングベスト100に入る3コースがアリソン氏の設計になります。

ただし東京ゴルフクラブの朝霞コースは戦時中に軍からの買い上げでわずかに8年で姿を消してしまいました。

悲しいことですね。
しかしそのアリソン氏の意志は今もコースに息づいていることと確信します。

kawana

Contents

アリソン氏の生い立ちと人生

日本には前述したように1930年12月からのたったの2カ月間という短い期間滞在しています。

その間に東京、静岡、京都、兵庫と歩いているようです。
東京は最初の東京ゴルフクラブ、朝霞コースの設計のためです。

兵庫は廣野ゴルフクラブ、静岡は川奈ホテル富士コースの設計です。
今日とは日本の文化に触れて、特に日本の庭園文化の象徴でもある

「わびとさびの思想」

に触れたようです。
その日本庭園の思想がその時のゴルフコースの設計に大いに役立てられたのは言うまでもありません。

アリソン氏はイギリスのゴルフコース設計家です。
師と仰ぐ、またはパートナーはイギリスゴルフコース設計の巨匠ともいわれる

「ハリー・コルト」 氏です。

cort

コルト理論はコンター図面の作成、灌漑施設の導入や植栽、芝土壌の研究まで今の時代に即した近代的なゴルフコースの設計理論として有名です。

このコルト理論は日本のコース設計の上でも大きな影響を与えたようです。
勿論それを持ち込んだのはたったの2カ月間なのですが、

「c・H・アリソン」氏です。

アリソン氏は1883年イングランドのランカシャーという処の生まれです。
ゴルフは5歳から始めてます。

オックスフォード大学の造園学部卒業!

オックスフォードとケンブリッジの共同の大学ゴルフ部に所属で1903年のアメリカ遠征では6戦無敗。

イングランドアマ優勝2回というからこれもまた驚きです。

1914年にハリーコルトに誘われてあのオーガスタやサイプレスポイントの設計者のアリスターマッケンジーと設計事務所を設立するもおりしも大戦に突入。

その間休業したようです。

世界大戦中は暗号解読に従事!

1928年にハリーコルトとモリソンでコース設計事務所

『Colt, Alison & Morrison Ltd』を設立。

1900年代初頭にはシーサイドのコースがなかなか難しい状況になってきていました。
コースに適する砂丘地域がなかなか確保できなくなってきていたからです。

リンクスランドの場合は平たんな場所を見つけてグリーンとティーにして、フェアウェイを短く刈ればゴルフ場になったのですが、それもできなくなっていったのです。

そこでゴルフコースの設計が内陸に入っていく時代になっていくのです。

リンクスランドからヒースランドへ・

そういうことになるわけです。

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ところがそれが難題で、荒野にホールを作成するのですから、特別な造成技術も必要になってくるのでした。

この巨匠といわれたコルトとアリソンは全英アマ選手権や英米対抗戦に出るメンバーの栄誉ある

「ブルー」

のメンバーでした。
13歳の年齢の開きはあってもともに活躍した選手だったわけです。

コルトは「セントアンドリュースGC」の会員としてあの有名な「エデンコース」を1913年に、22年には「サニングデール・ニューコース」を設計しています。

33年に専門のゴルフコース設計家として独立!

アリソンと共同で事務所を設立するということになるわけです。

アリソンとコルトのコースの設計思想

コースの基本的な考え方はリンクスで学んだのですが、ホールの戦略性とそれぞれに分析して長所と短所を徹底的に洗い出して、先ほどのヒースランド、つまり内陸にコースを作ることを得意とし、また確立していったのです。

アリソン自身の著書で

“Some Essay on Golf Course Architecture”(1920年刊)

この中で詳しく述べています。

戦略的レイアウトとは?
バンカーの適度な配し方とは?

などなど・・

これまではミスショットは罰を与える設計思想でしたが、アリソンとコルトの思想は、コースの戦略性を高めるために、ルートの考えを採用していったようです。

所謂簡単に言えば飛ぶ人はショートカットができる・・とか・・
腕前によってはいろんな戦略性、攻略のルートが複数存在するホールレイアウトを得意としたようです。

それと功績の大なものは近代的な設計方法です。

きちんと方眼紙に書いた図面。
ホール図面や起伏までもきちんと図面に書き落とす、しかも数値も正確に入れることも忘れずに・・

アリソンによって最先端技術に裏打ちされた最も近代的コース設計の技術が確立されたといっても過言ではないというか、確立されたかたなわけです。

最近の設計でジャックニクラウスの設計はどうなんでしょうか?

自分なりに少し勉強してみようと思います。

こういうことを考えながらプレーするとまた楽しみも別な意味でわいてくるかもしれませんね。

世界の名門ゴルフ場ランキングで100位以内ランクの日本の4コース

世界でも認められた日本の名門コースの紹介です

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