全英オープン開祖のトムモリスシニアはオールドコースに人生を捧げた

全英オープン開祖のトムモリスシニアは、オールドコースに人生を捧げたゴルフ界の神的な存在です。

セントアンドリュースのオールドコースをこよなく愛し、コース改修も行いました。
マッチプレーで無敵のアランロバートソンにも2度勝ってる伝説の英雄です。

全英オープンはモリスがきっかけで始まり、4度優勝しています。

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「ゴルフ界のソクラテス」

そう呼ばれたゴルフプレーヤーがいます。

「トムモリスシニア」

がそうです。1860年に全英オープンが開始される以前から、当代随一のゴルフの腕前でした。

要は生きているうちからすでに伝説の人だったのです。

トムモリスシニアは1821年にセントアンドリュースで生まれたとあります。
父は郵便職員で家は貧しかったようです。

tommorisu
(出典元:日経BPより引用しました)

少年のころからこの地はゴルフが盛んな地域でしたからゴルフに親しんで、キャディーをやりながらゴルフがうまくなっていったようです。

Contents

トムモリスシニアを替えた人生の転機・ロバートソンとの出会い

仕事をしないと食えませんから・・・

ある日にアラン・ロバートソンのところに奉公に行くことに。
まあボール職人としての弟子入りです。

アランロバートソンは伝説の人で、何しろ現代でも歴史的にプロゴルファー第一号だといわれています。

アラン・ロバートソンはゴルフの歴史でプロゴルファー第一号である
数々の名勝負、名マッチをこなして有名な方でした。

不敗のプロとも呼ばれ全く整備されていないオールドコースを、79で回ったという実力の持ち主でもありました。

参考までのこの時の79は今に換算すると59の実力だそうです。

マッチプレーでは敵なしだったようです。
アランローバートソンはボール職人でもあったのですが、それ以上にマッチプレーいや高額マッチプレーで相当儲けていたようです。

しかし1859年に亡くなってしまいます。

モリスはロバートソンお気に入りで、何しろトムモリスシニアの腕はロバートソン以上だったのですから。

ロバートソンは負けなしとは言ってますが、実はモリスには2回負けているそうです。

そんな実力ですからペアを組んだマッチプレー高額賞金マッチはさらに無敵!

二人はコンビでセントアンドリュースの英雄としてほかの町の凄腕といわれるプレーヤーとマッチプレーを行い稼いでいたということです。

代表的なのは1849年のマッセルバラのダン兄弟とのマッチプレーの賞金はなんと400ポンド。

今のお金で2000万だったといいますから驚きです。
勿論勝ちです。

ところが1845年ころにボールに革命が起きるのです。
それまでに主流だったフェザーボール(革巻き)が安価なゴムのガッティボールにとって代わろうとする流れが出てきたのです。

モリスはもちろんこのガッティボールが時代の主流になっていくんだと思っていたのですが、ロバートソンはフェザーボールに固執。

二人の仲は気まずくなっていったのでした。

そんなときに1851年。プレストウィックがモリスをグリーンキーパー兼プロとして招聘したのでした。
モリスは転機と思い思い切ってセントアンドリュースを飛び出したのです。

ロバートソンは1859年に死去!

全英オープンの開催のきっかけは?

1860年に全英オープン第一回大会が開催。

場所はプレストウィックなのですが、そもそもはそのプレストウィックが招いたトムモリスシニアの実力は折り紙付き。

どこのクラブのプロが一番強いか決めようじゃあないか・・

そういうプレストウィックの意図だったようです。

それともう一説はモリスによるロバートソンの追悼ゴルフの意味合いもあったようです。

どちらも本当なのかもしれませんね。

言い出しっぺはとにかくプレストウィックなのですから、場所ももちろんプレストウィックだったわけです。

名称はオープン競技なので

「the open」

その第一回大会には当時あった6つのゴルフコースから8人のプロが参加して競技が行われたようです。

ただしこの第一回大会はクラブ対抗試合といったほうがいいですよね。

全員集まれって公示したわけではないですから。

そこで2年目からは公募されてアマチュア選手にも開放されて、名実ともに

「全英オープン」

が開催されたのです。
そこでトムモリスシニアはその全英オープンで2年目からの7年間で連勝含む4勝を挙げています。

息子のトムモリスジュニアに至っては3連勝して大会が1年休んで、最下位の年にまた優勝と、実に4連勝しています。

トム・モリス・ジュニア全英オープン4度優勝した天才は早逝の英雄
親子全英オープン8勝したわけです。
すごいですね。

その後1863年にセントアンドリュースに戻ることに。
ここで今度はコースの設計家としての才能を開花させます。

オールドコースの改修が最初の仕事でした。
その時にカップに大きな金属のカップをはめ込んだのもこの時の彼のアイディアということです。

そしてこのカップの直径が108ミリという大きさもこの時に決められました。(一説にはこのカップは近くにあった水道管だというお話も・・・)

その後ミュアフィールドも手掛けることに。

晩年の彼はセントアンドリュース18番ホールのわきの

「モリスショップ」

に彼と話がしたいゴルファーが大挙して訪れることに。
階層はあらゆる階層で当時のイギリスの総理大臣も彼とプレーしたいとやってきたそうです。

人柄を示す言葉に・・

「穏やかな気質と礼節を兼ね備え、あたかも王侯貴族の家庭に生まれたるがごとく」

と言われて人々に慕われたそうです。

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トムモリスシニアの最後は?

亡くなったのは87歳の時。

自宅の階段から転げ落ちてそのままだったそうです。
葬儀の日はセントアンドリュースの市全体が喪に服し商店はすべて休業。

大学の教授やR&Aのメンバー、近隣から駆けつけた身分高いゴルファーが葬列を見送り、半旗が掲げられたといいますから、まさに国葬並みですね。

もしトムモリスがいなかったらプレストウィックでうちのモリスが腕は一番だなんて話が出るわけないですから、全英オープンは行われていなかった?

いや行われていたでしょうが、1860年ではなかったような気がします。

悲劇のゴルフの天才、トムモリスジュニアとの悲しい別れに接しながらも、素晴らしい人生でした。
古き良き時代と言えばそれまでですが、しかし古いからこそのロマンもあると思うのです。

個人のマッチプレーが主流の時に12ホールを3回回って勝負を決めようなどというルールも何とも当時らしさを感じます。

カップの直径も決めたんですね。

こういった方がいて今のゴルフがあるんですよね。
感謝します!

全英オープン開催コースと名勝負とオープンの歴史の紹介のまとめ

全英オープンの歴史や名勝負編のまとめです。

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